お返ししていくという気持ち
先日、父親のお姉さんが77歳にて他界されました。
家族葬に参加させていただくと、小さな頃に遊んでいた親戚、いとこたちも集まっていて暫くご無沙汰していた仲間たちでしたが一気に昔の記憶や遊んだシーンが蘇ってきます。
亡くなられたおばさんは喪主であるご主人(私からいうとおじさん)と2人で暮らされていました。
おじさんはそれはとても悲しまれていて、葬儀中には「50年一緒におって明日からおらんのか、悲しいわ、寂しいわ。」と、本音の言葉を漏らされたことに私たちも涙が込み上げてきました。
昔から口数少ないおじさんで、あまりたくさんんは話をしてこなかったのですが、この日はおじさんの心からの言葉に、おじさんの家族への愛情とこれまでの温かい暮らしぶりが伝わってきました。

そしてこの日は葬儀場の方が形式上でアナウンスされた「享年77歳でお帰りになられました」という言葉がやけに頭に残りました。
読んだことのある本を読み返すと過去に響いた文面とは違う文面に心響くことがありますが、まるでそんなふうに、これまで葬儀に参加して聞き逃していた言葉だったと思います。
以前に上皇后美智子さまが、手術による左手のこわばりによって大好きなピアノが弾けなくなったことを「今までできていたことは、預かっていたことで、できていたのにできなくなったことは、お返ししたもの」と表現されていたと、聞いたことがあります。
「帰る」という表現や「お返しする」という考え方は、ピンとくるものはあってもこれまではあまり深く考えていませんでしたが、自分の体は先祖をはじめ様々な人たちのつながりでできていて、借り物なのだという視点は納得します。
でもそう思うほどに、日々の自分は傲慢で自分よがりだと反省する点がいくつもあって、大切な存在や物事を無くしてから気がついている自分の心の小ささを知ります。

私たちが今見ている風景がずっと続く訳ではないからこそ、家族や会社、様々なつながりのある方々や物事1つ1つを大切にしたい。
おばさんとのお別れ、おじさんの言葉を通して、深く思ったひとりごとです。
おばさん、今までありがとうございました。
inoueakiyo